2011年11月29日
今日は「牛の尻尾」
今日の座右は皆さんなじみのある 「井蛙は以て海を語るべからず」いせいは以て海を語るべからずです。
井戸の中の知識しかない蛙に海の事を語る資格の無いことを
いったものですが、似たような格言で「井の中の蛙大海を知らず。」
といったほうが皆様よくごぞんじではないでしょうか。
我が知識 我が物指しをもって世を測ることの愚かさを
戒めた語句であろうかとおもいますが、えてして人間は
知識を得れば得るほど傲慢ぶそんになりまして、そんな狭量なる知識がむしろ仇となり
海の広さ深さを知る機会をのがしてしまうようなことがよくあるのではないでしょうか。
能ある鷹は爪を隠し、また実るほど頭を垂れる稲穂のように謙虚さが
よろしいようであります。また外国では
「地獄にいる者には天国がどんなところであるか、わからない」と
いうようなものもあります。これをいった人にたいへんきょうみがわいてきますけど・・・また
知識豊富なある人に出会った弘法大師空海が、その人を指して牛の尻尾の様な人だなと、
いったそうです。そうするとその人がどうして私が牛の尻尾なんだと、頭から湯気を出して大師につめよると
空海はこう言ったそうです、「あなたはたいへんモウの尻ですね」だそうです。
ひけらかす知識はいただけませんね。
皆様の周りには「牛の尻尾」さんはいませんか。
井戸の中の知識しかない蛙に海の事を語る資格の無いことを
いったものですが、似たような格言で「井の中の蛙大海を知らず。」
といったほうが皆様よくごぞんじではないでしょうか。
我が知識 我が物指しをもって世を測ることの愚かさを
戒めた語句であろうかとおもいますが、えてして人間は
知識を得れば得るほど傲慢ぶそんになりまして、そんな狭量なる知識がむしろ仇となり
海の広さ深さを知る機会をのがしてしまうようなことがよくあるのではないでしょうか。
能ある鷹は爪を隠し、また実るほど頭を垂れる稲穂のように謙虚さが
よろしいようであります。また外国では
「地獄にいる者には天国がどんなところであるか、わからない」と
いうようなものもあります。これをいった人にたいへんきょうみがわいてきますけど・・・また
知識豊富なある人に出会った弘法大師空海が、その人を指して牛の尻尾の様な人だなと、
いったそうです。そうするとその人がどうして私が牛の尻尾なんだと、頭から湯気を出して大師につめよると
空海はこう言ったそうです、「あなたはたいへんモウの尻ですね」だそうです。
ひけらかす知識はいただけませんね。
皆様の周りには「牛の尻尾」さんはいませんか。
2011年11月26日
今日の座右
今日は
「棺を買いて珠を還す」 「ひつをかいてたまをかえす」です。
意味はと言いますと、 価値の無いものを求め、 価値あるものを手放すという意味
であるようであります。玉石混交のまぎらわしい世の中ですが、がれきを求め珠をすつる
といった意味にも通ずる気がします。取り捨て選択するその人の行動決定が
何を棺とし何を珠としたかということになろうかとおもいますが、
今ある自分の環境が今までの取り捨てしてきた
結果で゛あるとするならば、今おかれている環境はとりもなおさず
全て己の責任であり我が選んだ道ということになります。
他人を恨まず愚痴を言わず自己の研鑚に励み。
真贋二者を見分ける感性知性があれば
きつと違う人世が開かれるかもしれませんね。
それではまた。
「棺を買いて珠を還す」 「ひつをかいてたまをかえす」です。
意味はと言いますと、 価値の無いものを求め、 価値あるものを手放すという意味
であるようであります。玉石混交のまぎらわしい世の中ですが、がれきを求め珠をすつる
といった意味にも通ずる気がします。取り捨て選択するその人の行動決定が
何を棺とし何を珠としたかということになろうかとおもいますが、
今ある自分の環境が今までの取り捨てしてきた
結果で゛あるとするならば、今おかれている環境はとりもなおさず
全て己の責任であり我が選んだ道ということになります。
他人を恨まず愚痴を言わず自己の研鑚に励み。

真贋二者を見分ける感性知性があれば
きつと違う人世が開かれるかもしれませんね。
それではまた。
2011年11月23日
勤労感謝の日について
今日は祭日ですね、日々の勤労に感謝する日ということですが、これも戦前は新嘗祭(にいなめさい)
と申しまして米の収穫を感謝し、今年とれた新米を神前にお供えをして
お祭りをする意味がほんとうだったようですね。戦前と戦後の価値観
あるいは名称といったものが、それらを境にして
変わったように思います。それらはとりもなおさず
時代の断絶といったものを感じさせ、私にとりましては少しく寂しさを感じるところであります。
家族の中で80代以前のおじいちゃん、おばぁちゃんがおられましたら
たずねてみてください。そんな話をきっかけにして
話に花が咲くかもしれませんよ。
と申しまして米の収穫を感謝し、今年とれた新米を神前にお供えをして
お祭りをする意味がほんとうだったようですね。戦前と戦後の価値観
あるいは名称といったものが、それらを境にして
変わったように思います。それらはとりもなおさず
時代の断絶といったものを感じさせ、私にとりましては少しく寂しさを感じるところであります。
家族の中で80代以前のおじいちゃん、おばぁちゃんがおられましたら
たずねてみてください。そんな話をきっかけにして
話に花が咲くかもしれませんよ。
タグ :新たな工法
2011年11月22日
今日の座右
今日の座右は松江重頼という人の作で
「若木の下で笠を脱げ」です。
意味は、今は小さくたよりない小木だけど将来は大きく立派に成長する。だから
小さいからといつて決して軽んじてはならない、
というほどの意味だそうです。子供の成長に手をやかれるかたも多いかと思いますが
でも将来はきっと親のちからになってくれますよ。
「くがねも たまも なにせむに まされるたから こにしかめやも」 かな
すくすく育つことを願いたいですね。
そして我が社のPC工法も皆様のご愛顧を賜りひろく活躍する事を
ねがっておるんですが。
「若木の下で笠を脱げ」です。
意味は、今は小さくたよりない小木だけど将来は大きく立派に成長する。だから
小さいからといつて決して軽んじてはならない、
というほどの意味だそうです。子供の成長に手をやかれるかたも多いかと思いますが
でも将来はきっと親のちからになってくれますよ。
「くがねも たまも なにせむに まされるたから こにしかめやも」 かな
すくすく育つことを願いたいですね。
そして我が社のPC工法も皆様のご愛顧を賜りひろく活躍する事を
ねがっておるんですが。
2011年11月20日
今日の座右
昨日はブログ休んでしまいました。
すみませんでした。
今日の座右は 「小人の学は耳より入りて口に出ず、口耳の間は則ち四寸のみ」 「しょうじんのがくはみみよりいりてくちにいず、こうじのかんはよんすんのみ」です。
これもシナの国の人で荀子といゅう人の作だそうです。
小人の学は一瞬にして通り抜けてしまい心の糧にも身の潤いにもならない
本当の学問というものは人を美にし世をも益するものである。木の枝葉すら夏の暑い日には
陰を成し人を憩わせるものだ。ましてや君子の学は独りその身を
潤すばかりではない。多くの人たちの心の憩ともなり
潤いともなるものである。学ぶということの本質はなんなのでありましょうか。学校へ行く子らを呼び止め
「どうして学校へ行くの?」と聞くとおそらく 「みんなが行くから」
ぐらいの答えしか返ってこないのじゃないかとおもいます。
より良い就職をめざしより豊かな生活を求めての学問なのでしょう。
今日の新聞に載っていましたが、高校入学から大学卒業までの
子供一人当たりの教育費がなんと1042万かかるのだそうです。
皆さんは違うと思いますが、私は学校で習ったことで
今覚えていると言ったら読み書きそろばんだけのような
きがします。鶴亀算も忘れ、平方根の計算のしかたも
因数分解も、サインコサインタンゼントも学校をでてから
ほとんど使った覚えがありません
。
学校をでてから学んだことの方がおおいようなきがします。
学校で学んだことはまさに試験までの口耳の間ですかね。私の場合です。それでは

今日の座右は 「小人の学は耳より入りて口に出ず、口耳の間は則ち四寸のみ」 「しょうじんのがくはみみよりいりてくちにいず、こうじのかんはよんすんのみ」です。
これもシナの国の人で荀子といゅう人の作だそうです。
小人の学は一瞬にして通り抜けてしまい心の糧にも身の潤いにもならない
本当の学問というものは人を美にし世をも益するものである。木の枝葉すら夏の暑い日には
陰を成し人を憩わせるものだ。ましてや君子の学は独りその身を
潤すばかりではない。多くの人たちの心の憩ともなり
潤いともなるものである。学ぶということの本質はなんなのでありましょうか。学校へ行く子らを呼び止め
「どうして学校へ行くの?」と聞くとおそらく 「みんなが行くから」
ぐらいの答えしか返ってこないのじゃないかとおもいます。
より良い就職をめざしより豊かな生活を求めての学問なのでしょう。
今日の新聞に載っていましたが、高校入学から大学卒業までの
子供一人当たりの教育費がなんと1042万かかるのだそうです。

皆さんは違うと思いますが、私は学校で習ったことで
今覚えていると言ったら読み書きそろばんだけのような
きがします。鶴亀算も忘れ、平方根の計算のしかたも
因数分解も、サインコサインタンゼントも学校をでてから
ほとんど使った覚えがありません

学校をでてから学んだことの方がおおいようなきがします。
学校で学んだことはまさに試験までの口耳の間ですかね。私の場合です。それでは
タグ :新たな工法
2011年11月18日
今日の座右は

「先んずれば人を制し後るれば人に制せらるる」
という文章です。文意はさほど難しくありませんよね。
例え話で申しますれば、今では当たり前ですが以前はお金を出して
お茶を飲むなんてことは考えられませんでした。でもたしか伊藤園という会社が
早かったのではなかったかとおぼつかない記憶ではありますが
そういう印象をもっています。今日ではたくさんある飲料メーカーのなかで
やはりお茶のメーカーとしては伊藤園が他社を制しているのではないでしょうか。
先見の明があったのでしょうね。わが社のPC工法もそうあって欲しいものです。

さて突然で恐縮なんですが今日知り合いの方から写真掲載の方法を教えていただいたものですから
厚かましくも腕試しさせてください。
載せられる写真が見当たらず古い写真ですが横田ご夫妻と一緒に撮った写真がありましたので
掲載させていただきます。